|
08世紀
唐の僧鑑真(688~763年)が、黒砂糖を伝来した説があります。
16世紀
金平糖は、戦国時代に宣教師によって伝来された砂糖菓子の一つです。
17世紀
1610年薩摩国大島郡(奄美大島)の直川智が黒砂糖の製造に成功。
1623年琉球王国(沖縄県)で儀間真常王(ギマシンジョウ・1557~1644年)が
砂糖生産の奨励を始め、やがて琉球の特産品となっていった。
18世紀
元禄期、薩摩藩が本格的に製糖を開始。
当初砂糖は、貴重品で医薬品として扱われました。 江戸時代、砂糖は海外からの主要な輸入品の一つ、 オランダや中国の貿易船が大量の砂糖を出島に持込み、 大量の金・銀の産出で高値で取引されました。 輸入増は、砂糖使用の和菓子の発達をもたらしました。 - 写真左 : 金 平 糖 - |
駿河(静岡)・遠江(静岡県・和泉(大阪)等で製糖が始まりました。
高松藩主松平頼恭(ヨリタカ・1711~1771年)がサトウキビ栽培を奨励し、
天保期には国産白砂糖のシェア6割を占めるまでになりました。
また、高松藩はこの頃「和三盆」の開発に成功し、高級砂糖として現在でも
製造されている。
19世紀
日本国内で賄えるようになり天保元年頃(1830年)大阪での取引量は増加
輸入糖430万斤・国産糖2,320万斤 合計2,750万斤(16,500トン)となり
幕末頃(1865年)にはその2倍となっていた様です。
1868年明治維新の開国で外国から「白砂糖」が入るようになり、日本は
奄美大島と沖縄県の黒砂糖のみとなった。
1894年日清戦争後、台湾を中心に近代砂糖業が発展し大量の砂糖が
供給される事となりました。
これによって沖縄を除く日本本土ではサトウキビの生産が衰退し、台湾
での増産と増大を続け、昭和に入ると砂糖の自給をほぼ達成しました。
一部の贅沢品から一般家庭でも普及されました。
一方、北海道においては明治初期に甜菜の生産が試みられたが失敗する
20世紀
甜菜糖は、昭和初期に入ってやっと商業ベースに乗るようになりました。
この砂糖生産の拡大と生活水準の向上によって消費量も増大し、1939年
には一人当たりの消費量が16.28kgと戦前の最高値に達しました。
2010年の消費量(16.4kg)とほぼ変わらないところまで消費が伸びました。
1940年代台湾からの供給が絶たれ、配給制となってしまいました。
1944年には、配給制度も打ち切りとなりました。
1945年第二次世界大戦の終戦によって砂糖不足が起こりました。
1973年第四次中東戦争を契機に砂糖パニックが起き、入手困難となる。
南北に長い日本列島はサトウキビの栽培に適した亜熱帯と甜菜(ビート)栽培に適した冷帯の両方が存在する。
国産量は微増傾向にあるが、それは主に甜菜糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。
サトウキビの主たる生産地は沖縄県や鹿児島県で、戦前は台湾で砂糖が大量に生産されていた。
テンサイの生産地は主に北海道である。
日本の輸入はタイが約4割、オーストラリアが約4割、南アフリカが約1割をそれぞれ占め、この3カ国で9割以上の輸入をまかなっている。
【砂糖の種類】
砂糖は、製造法によって含蜜糖と分蜜糖とに大きく分けられています。
1)含蜜唐は、糖蜜を分離せずにそのまま結晶化したもの。
糖蜜を分離していないため原料本来の風味が残るのが特徴である。
*黒砂糖・白下糖・和三盆糖・カナソード(赤砂糖)
2)分蜜糖は、文字通り糖蜜を分離し糖分のみを精製したものである。
一般的に使用されるこちらの砂糖がほとんどである。
①粗糖は、精製糖の原料で不純物も多くそのままでは食用に適さない。
②生産地の近くで一次精製を行い粗糖を作成した後、消費地の近くで
二次精製を行って、商品として流通する精製糖が作られることが多い。
日本に粗糖で輸入され、国内の各メーカーが各種精製糖を製造する。
*ザラメ糖:白双糖・中双糖・グラニュー糖・・・決勝が大きなタイプ
*車 糖 :上白糖・三温糖・・・車糖(クルマトウ)はさらに結晶が小さタイプ
*加工糖:角砂糖・氷砂糖・粉糖・顆粒糖・・・ザラメ糖を原料に加工
液 糖・・・液体の砂糖
【関連項目】
’06年01月01日「サトウキビ」 ’06年01月16日「甜 菜」
’06年12月01日「砂糖の製造工程」 ’06年12月16日「いろいろな砂糖」
’07年01月16日「黒糖と和三盆糖」 ’13年10月01日「砂糖の歴史・世界編」
<調査員:本 社 営業部>
資料 : 農畜産業振興機構 ・ 脳も体も砂糖が大好き
織田信長と砂糖 ・ 江戸時代の砂糖食文化
砂糖の歴史 ・ ウッキペキュア(砂糖の歴史)
<調査員:本 社 営業部>