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この時代、私達先祖の古代人は農耕で米・粟・麦を主食に、間食として野生の「木の
実」や「果実」を食べていました。
菓子は果子という字がもとになり、今でも果物の事を”水菓子”と言ったりします。
11代垂仁天皇の命で田道間守神(橘本神社)が中国・インド地方より持ち帰った
「橘」(みかんの一種柑橘類)も菓子の語源となっています。
【奈良時代】
704年には(文武天皇の頃)遣唐使として粟田 真人が渡るなど、中国大陸との往来が
盛んになり、大陸の文化や唐菓子(からくだもの)も伝来され、これは米粉・小麦粉等の
原料を油で揚げたお菓子で、これが和菓子のルーツの一つとなった様です。
貴族階級に愛好され、神仏にも供えられ、次第に一般へも普及していきました。
754年唐の僧鑑真が日本入国の際、黒糖を天皇への献上品として持って来たと言われ、
その後遣唐使によって中国から少量づつ持ち帰られ、上流階級で珍重されました。
【平安時代】 この時代には「水飴」の記録を多くみることができ、これは 米もやしの麦芽水飴です。 809年には空海が中国から持ち帰った小豆を栽培し、御所 から下賜された砂糖を加え餡が炊かれたのが、日本で始め て作られたのが小倉餡の始まりです。 (下記参照下さい) - 写真左:二尊院総門前「落柿舎」向かい側畑- |
【鎌倉時代】
饅頭・羊羹などが日本に渡来したのは点心の一種として、中国に留学した禅僧によって
伝来されました。
鎌倉時代に入ってから、次第に砂糖の輸入が増えていきましたが、一般庶民は甘味
といえば、まだ「水あめ」を使用しておりました。
【室町時代】
1543年ポルトガル船が種子島に漂着したのを始まりに、鉄砲・キリスト教の伝来など
ともにカステラ・ビスカウト(ビスケット)・ボーロ・コンフェト(金平糖)・アルヘイト(有平糖) ・カルメ焼きなどのお菓子が伝来しました。
【安土・桃山時代】
国内でサトウキビの生産が行われるようになったのは、慶長年間(1596年)に鹿児島の
大島で、亨保年間(1716年)に、九州や四国で甘蔗が栽培されるようになりました。
南蛮人によって伝来された白砂糖はそれまでの菓子の味を一変させ、砂糖は製菓材料と
して重要な役割を担うこととなりました。
砂糖の製法が伝来し栽培が盛んになり、材料的にも技術的にもめざましい躍進を遂げ
南蛮菓子は、長崎を中心にして日本国中に広がり始めました。
文化の中心地は京都で茶道とともに発達した点心は、一部の上流階級の菓子として
発展をしました。
【江戸時代】
文化の中心地は江戸に移りましたが、京都からの伝来物は「下りもの」として尊ばれ、
菓子類もその例に洩れませんでした。
ようやく1720~1780年頃になると江戸の個性も出始め、桜餅・金つば・大福餅・おこし
せんべい等の生活に密着した菓子が作られ武士や町人に歓迎されました。
1804~1830年以後の江戸は庶民の街として、今川焼・五家宝・紅梅焼・かりんとう等、
幕末には最中(もなか)と切山椒が人気を集めました。
和菓子の殆どが江戸時代に作られ、今日の和菓子の基礎が作られました。
五家宝:おこし種・水飴などで棒状にし、きな粉をまぶした菓子
紅梅焼:小麦粉・砂糖・山椒の実を粉にした堅焼きの煎餅
切山椒:山椒の汁と砂糖を混ぜて搗いた新粉餠を細長く切った餅菓子
昭和23年3月に嵯峨商工研究会にて、藤本達造・高桑義正・ 鈴木広政・ 都田左兵衛(五代)・中路明の諸氏の方々から此の伝承が確認されています。
今ここに創業二百年を記念してこの碑を建立することにより, 小倉餡の歴史を解明する端緒となれば幸いです。
平成17年3月6日 井筒八ツ橋本舗 六代 津田左兵衛建之
資料:全国和菓子協会・ (社)日本洋菓子協会連合会・ ウィキペディア
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