11月となり朝夕めっきり冷えてきました。 今回も南蛮渡来の「かりんとう」を調べてみました。 遣唐使の時代に伝来された説もあるようです。 数年前より従来の「黒糖かりんとう」始め、かりんとうブームとなり 芋・野菜・きんぴら牛蒡等の素材に加え、胡麻味・黒こしょう味・ コーヒー味なども販売されています。 |
最近では、油で揚げない「かりんとう」も有るようですが、 かりんとうの定義では揚げたお菓子だそうです。
砂糖の替わりに黒糖を原料にした物が「黒糖かりんとう」となります。
【かりんとうの伝来】 起源については、奈良時代遣唐使によって伝来された唐菓子という説と、 戦国時代以降に伝来した南蛮菓子を由来とした説と有るようです。 |
奈良時代にもたらされた菓子で、その時代には上流階級の人達に食されました。
江戸時代に入って関東にも広まり、明治初期には東京浅草周辺から庶民の味として 親しまれるようになりました。
一説には、戦国時代には、栄養価も高い事から兵士の保存食に使われた説も 有るようですが、真偽のほどは不明です。
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関連性を示す研究・文献はない様ですが、、スペインにはペスティーニョ(スペイン語)・ ポルトガルではコスクランと呼ばれる「かりんとう」お菓子があります。
また、兵庫県姫路市周辺で作られている「かりんとう」は、 江戸時代に姫路藩の殖産政策の一貫として、留学生が長崎のオランダ人から油菓子の製法を伝授され、 同地に持ち帰ったのを起源とする説があようです。
【全国油菓工業協同組合資料】 (かりんとう関係の組合)
一般人にとっては無縁であった唐菓子も、やがて日本国有の菓子に影響を与え、 和唐合作の新商品も作られるようになっていきました。
享保の頃から江戸人好みの雑菓子が庶民のために創作され、その中には江戸時代 中期以後に作られたもので、小麦粉を捏ね、棒状にして油揚げしたものがありました。
これは、かりん糖という名こそ用いていませんでしたが、確かにかりん糖そのもので、 享保年間には江戸市中にかりんとうブームがあったとも言われています。
明治8年に浅草仲見世の飯田屋が棒状のものに黒砂糖をつけたものを売り出して、 素朴で単純な甘味が大衆の支持を得て広まったと言われています。
特に黒砂糖が使われた理由は、江戸時代末まで、白砂糖は上菓子にしか使うことを 認められなかったと言う時代的背景の影響とされています。
しかし、関西地方ではかりんとうを「オランダ」と呼び、縄状にねじったかりんとうや 板状かりんとうが作られているので、江戸雑菓子の中から生まれた棒状のかりん糖 とは、その生い立ちが違うように思われます。
安土桃山時代に南蛮菓子として長崎に伝えられたものが九州、中国、四国、関西と 広まったと考えられ、かりんとうの誕生に、二つの系統があると考えられています。
資料 : ウッキペディア 「かりんとう」・
全国油菓工業協同組合資料等を参照しました。
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